【雑木】良質とならない種々雑多の樹木。薪材などにする木。ざつぼく。ぞうぼく。 ー 新村出編『広辞苑 第七版』岩波書店、2025年。
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【庭・場】1.広い場所。物事を行う場所。3.草木を植え築山・泉池などを設けて、観賞・逍遙などをする所。庭園。 ー 新村出編『広辞苑 第七版』岩波書店、2025年。
という説明で、解釈すると「雑木の庭=雑木を使った庭」ということに聞こえてしまう。
確かに、雑木を使った庭ではあるんだけども、私が修行時代に見聞きしたものからすると少しエッセンスが足りないようにも聞こえてしまう。

武蔵野の里山の風景
雑木の庭の創始者である飯田十基(1890-1977)は、松本幾次郎、岩本勝五郎、鈴木次郎の名だたる造園家のもとで修行を経たが、「武蔵野の美しい自然を壊してまで、庭をつくるのか」疑問に思ったそう。
当時は薪(雑木)で米を炊き、お風呂を沸かしていた時代。武蔵野(東京)にも里山が点在していた。
そんな武蔵野の里山の風景を、飯田十基は庭に落とし込もうと試みたと思われる。
「武蔵野の美しい自然」は現在では肌に感じることはできないが、写真や絵、小説、詩などで窺い知ることはできる。
国木田独歩(1871-1908)は著書「武蔵野(新潮文庫、2022)」でこう語る。
武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由て始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば、随処に吾等を満足さすものがある。これが実にまた、武蔵野第一の特色だろうとしみじみ感じて居る。武蔵野を除て日本にこの様な処が何処にあるか。北海道の原野は無論の事、那須野にもない、その外何処にあるか。林と野が斯くも能く入り乱れて、生活と自然とがこのように密接して居る処が何処にあるか。実に武蔵野に斯る特殊の路のあるのはこの故である。
武蔵野ではいつどこへ迷い込んでも、美しいハプニングに見舞われるというのだ。それは日本の何処にもなく、生活の内に自然がある武蔵野にしかないのである。
しかし、雑木の庭は何も「武蔵野」限定というわけではない。
重要なのは「人が自然と一体となって生活を営む中で、その美しさを見つめられること」であると思う。

落葉林の美を感じる
雑木の庭は、四季折々の表情を見せてくれる。
温かい空気を感じ柔らかな新芽が芽吹き、新緑や淡い色彩を伴い春が訪れ、チラチラと林の中に差し込む光も美しく、野鳥の鳴き声も微笑ましく感じる。
食卓には、ふきのとうや蕨などの山菜が並ぶ。
………春の「は」の一画目の途中までしか書けていないが、季節の移ろいなんて書ききれないので割愛します。
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ただ、現代の人たちは刺激を求め都会に集まりますが、週末には静かな地を求め山へ篭ります。
本当に求めているのはなんでしょうか。
静かに、風で揺れる枝先の葉がつくりだす陰影で遊ぶ蝶を眺めたり、川の流れや野鳥の鳴く声に耳を澄ませたりと、そんな時間を過ごす心のゆとりを持つことが、とても大切なように思います。
いざ心を落ち着けようとしてみても、落ち着かない人がほとんどではないでしょうか。
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